岡山の神々と、頼任親王ゆかりを、訪ねる旅

頼任親王は、

承元4年(1210年)、親王宣下。母の姉妹が源実朝の室だった関係もあり、建保7年(1219年)の実朝横死後は一時後継の征夷大将軍候補に擬せられていた。

承久3年(1221年)の承久の乱の結果、父の後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流された。同地において薨去したとされ、児島高徳の曽祖父であるとも伝わる。

熊野神社と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態を取る宗教施設として栄えたが、平安時代中期以降は衰微した。

頼任親王の子道乗は、藤原良実関白家に置かれ、後鳥羽上皇后家、坊門家により、摂関家が置かれていた。

写真は、児島の熊野社にある後鳥羽上皇の供養塔である。高さが5メートルほどもある立派なもので、国の重文に指定されている、後鳥羽院の供養塔である。   

児島五流尊流院の四世頼宴大僧正を父とし、邑久にあった、和田備後守藤原児島範長の女を母とし3男として生まれたのが、太平記に記された、[児島高徳]である。

宇都宮宗圓の子児島盛宗は源平の合戦、藤戸の闘いで功あり、児島の迫川庄をいただき、盛宗女に佐々木盛綱が養子となり、二男の佐々木加地信実が北条時政の女と結ばれ、頼仁親王の子道乗僧正で、室は小野中条女で6人の子を産んで五流を継いだとある。

      

          後鳥羽天皇――+――覚仁親王
       |
       +――頼仁親王――道乗大僧正――+――澄意権僧正
          宝治1   室藤原氏   |
          室藤原氏         +――頼宴大僧正――+――宴深僧正――・・・
                       |  室児島氏   |
                       |         +――範重
                       +――親兼権僧正  |
                       |  伝報院祖   +――高徳
                       |         |
                       +――隆禅権僧正  +――女
                       |  太法院祖      藤原氏嫁
                       |
                       +――澄有大僧都
                       |  報恩院祖
                       |
                       +――昌範僧正
                          建徳院祖

瀬戸大橋線の普通電車に乗り換えます。「木見駅」に到着 

          

坊判信清の女西御方は局が子として院に宮仕へさせたので、其の腹に生み塞らせた冷泉宮頼仁親王をも局が鞠養し奉つて居た。

尊瀧院へ入る際、佐々木小野、盛綱の子、信実の一族が護衛したと言われています。

冷泉宮頼仁親王墓所  岡山県倉敷市木見に冷泉宮頼仁親王の御陵がある。頼仁親王は、承久の乱(承久3年、1221年)で鎌倉の執権北条義時と争って破れ、隠岐へ流された後鳥羽上皇の第四の皇子だ。この皇子も謀議に加わったとして、同年この地の五流尊瀧院に配流された。すでにこの地にいた第4皇子の桜井宮覚仁親王とともに、この地で寂しく余生を送ったという

後鳥羽天皇の時、三井寺長吏覚仁親王、即ち桜井宮が初めて新熊野山検校に補せられ、以後今に至るまで、聖護院宮が代々その職に補せられている。 
桜井宮は、この地林権現の検校であったから、承久の乱(1221年)を避けて児島に下り、尊瀧院に居られた。その兄宮の頼仁親王こと冷泉宮も、この地に配流され、兄弟一緒に住居された。
冷泉宮児島宮は宝治元年(1247年)四月十二目に薨去され、桜井宮は弘長三年(1263年)三月二十八日に薨去された。

木見駅を出て、近くの人に、頼任親王の墓の方角を訪ねる、駅前の道を、十分ほど歩くと、右手にあると、教えていただいた。それから頼任親王の墓前の畑で作業中の人に、五流尊瀧院の道を、教えていただいた。ここから、だいたい、十分ほど歩いて、学校が目印で、傍にあるという。

       

    

                              五流尊瀧院の案内板が見える、坂を上ると、尊瀧院の石が見え、左手に、進むと、宮家の方が、いられ、談笑する

  
      sontakiin

 熊野神社の場所を、聞き、徒歩五分で右手に進むと、熊野神社の、鳥居に着く、右手に、三重塔が、見える。中に進むと、壮大な、社殿が見える。十二殿を参詣し、授与所で、祖先の参詣を伝えると、丁重に、宮司さんに、案内され、おもてなしを、受ける、熊野神社の紋章の、いわれを語られ、壮観さを感じる、日本一の熊野神社紋は、さすがに、貴重な天皇の社殿であると、感じる。↓

    

    

 この後、案内されたのは、池田公寄進の、八尾羅稲荷神社は、数々の、神徳が、報告されているという、参詣した、思えば、八尾羅とは、児島高徳大僧上の名で、あり、岡山城は宇喜多直家公の城で、秀家公が、危機の時、同じく一族の、児島高徳末裔の佐久間甚九郎が、助けに、来た時暴漢に襲われた時、鳳凰が泣いたので、暴漢は、恐れおののいたのが、神徳の、おかげとなり、熊野八尾羅稲荷神社と、同じ佐久間甚九郎稲荷神社由来を、感じた。三日目、岡山城に、見物すると、宇喜多家は児島高徳末裔の、いわれが、天守閣に上がり、カメラで撮影したのは、天守瓦に、後鳥羽上皇の十六葉菊紋が、ちりばめられて、いる、この十六葉菊紋は、華夏越王天王、意外は、使用できないといい、児島高徳が「太平記」で越王勾践の空しうす事なかれ、に身分を語っている。

  

                                                                                      岡山城の傍の佐久間甚九郎稲荷神社の鳳凰(天王標)

    

   後鳥羽上皇墓                                                                                       八尾羅稲荷神社

                              

 倉敷の吉備津神社に、賀陽氏について調査 10/17

 

    

 

 

 

岡山城の傍の佐久間甚九郎稲荷神社 10/17

  

 
 

 

父佐久間信盛の、滋賀城跡にも、石彫刻の、鳳凰があり、足利義光の金閣寺と、同じ、ビン越天王末裔と見える。中国にも鳳凰城に鳳凰が屋根に見える。

  

 湖南省の湘西自治州に、昔ながらの街並みをそのまま残している貴重な古街。その名は「鳳凰古城」。春秋戦国時代

  

  

   岡山城の宇喜多家調査は、後楽園も見えた ➡ クリック

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