岡山の神々と、頼任親王ゆかりを、訪ねる旅
頼任親王は、
承元4年(1210年)、親王宣下。母の姉妹が源実朝の室だった関係もあり、建保7年(1219年)の実朝横死後は一時後継の征夷大将軍候補に擬せられていた。
承久3年(1221年)の承久の乱の結果、父の後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流された。同地において薨去したとされ、児島高徳の曽祖父であるとも伝わる。
熊野神社と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態を取る宗教施設として栄えたが、平安時代中期以降は衰微した。
頼任親王の子道乗は、藤原良実関白家に置かれ、後鳥羽上皇后家、坊門家により、摂関家が置かれていた。
木見駅を出て、近くの人に、頼任親王の墓の方角を訪ねる、駅前の道を、十分ほど歩くと、右手にあると、教えていただいた。それから頼任親王の墓前の畑で作業中の人に、五流尊瀧院の道を、教えていただいた。ここから、だいたい、十分ほど歩いて、学校が目印で、傍にあるという。
五流尊瀧院の案内板が見える、坂を上ると、尊瀧院の石が見え、左手に、進むと、宮家の方が、いられ、談笑する
熊野神社の場所を、聞き、徒歩五分で右手に進むと、熊野神社の、鳥居に着く、右手に、三重塔が、見える。中に進むと、壮大な、社殿が見える。十二殿を参詣し、授与所で、祖先の参詣を伝えると、丁重に、宮司さんに、案内され、おもてなしを、受ける、熊野神社の紋章の、いわれを語られ、壮観さを感じる、日本一の熊野神社紋は、さすがに、貴重な天皇の社殿であると、感じる。↓
この後、案内されたのは、池田公寄進の、八尾羅稲荷神社は、数々の、神徳が、報告されているという、参詣した、思えば、八尾羅とは、児島高徳大僧上の名で、あり、岡山城は宇喜多直家公の城で、秀家公が、危機の時、同じく一族の、児島高徳末裔の佐久間甚九郎が、助けに、来た時暴漢に襲われた時、鳳凰が泣いたので、暴漢は、恐れおののいたのが、神徳の、おかげとなり、熊野八尾羅稲荷神社と、同じ佐久間甚九郎稲荷神社由来を、感じた。三日目、岡山城に、見物すると、宇喜多家は児島高徳末裔の、いわれが、天守閣に上がり、カメラで撮影したのは、天守瓦に、後鳥羽上皇の十六葉菊紋が、ちりばめられて、いる、この十六葉菊紋は、華夏越王天王、意外は、使用できないといい、児島高徳が「太平記」で越王勾践の空しうす事なかれ、に身分を語っている。
岡山城の傍の佐久間甚九郎稲荷神社の鳳凰(天王標)
後鳥羽上皇墓 八尾羅稲荷神社
倉敷の吉備津神社に、賀陽氏について調査 10/17
岡山城の傍の佐久間甚九郎稲荷神社 10/17
父佐久間信盛の、滋賀城跡にも、石彫刻の、鳳凰があり、足利義光の金閣寺と、同じ、ビン越天王末裔と見える。中国にも鳳凰城に鳳凰が屋根に見える。
湖南省の湘西自治州に、昔ながらの街並みをそのまま残している貴重な古街。その名は「鳳凰古城」。春秋戦国時代
岡山城の宇喜多家調査は、後楽園も見えた ➡ クリック